通訳者や翻訳者が「憧れの職業」だと宣伝している人たちがいる。たしかに一流の通訳者や翻訳家は会社などの組織に頼ることなく、自分自身の能力や裁量で仕事を行ない収入を得ることができる職業である。サラリーマンのように社内の人間関係に悩むこともないし、決められたノルマもない。結婚・出産したからといって仕事がなくなることもないしセクハラや性差別に憤ることもない。
だからといって「憧れの職業」であるかといえば、そんな職業ではない。通訳翻訳ビジネスは実力社会なので、まず実力がなければどうしようもない。実力を持つ人でも常に自分の知識や能力を磨き、同業者と競争していかなくてはならない。しかも収入の保証は一切なく病気をすれば無収入になり生活すらできなくなる。定年はないが、手厚い退職金や企業年金はない。
自分の生活を自分で管理し、目標を立て、それを達成していかなければならない。ときには孤独と戦い、ときには自分を励まし仕事をしていかなくてはならない。頼れるのは自分ひとりの能力と力量だけなのだ。会社という組織を抜け出せば学歴や勤続年数など、まったく意味をなさないむきだしの競争社会に投げ出される。
通訳業・翻訳業は「憧れの職業」などといってもてはやす職業ではない。一流の通訳者や翻訳家は自己責任と自己管理のもと、自身のキャリアを築きあげた人たちだ。組織中心の企業文化の中で自分の能力を売り、生活していくことは「尊敬」に値するが、「憧れ」の対象にすることではない。何よりも通訳や翻訳で生活している通訳者や翻訳家に対して失礼だ。
「憧れの職業」だという幻想を作りあげ、宣伝している人たちは、通訳や翻訳で生活していくことの難しさ、厳しさを知っている。一握りの人たちだけが通訳や翻訳で生活していることもちゃんと知っている。「憧れの職業」でないことでさえも知っている。それなのに「憧れの職業」だという。憧れ幻想を作りあげて宣伝している人たちは通訳業・翻訳業で生活などしてはいない。本当に憧れているなら、自分の職業にすればいいが、そんなバカなことはしない。
憧れ幻想を作りあげ宣伝すれば語学教材や通信講座、通訳翻訳の講座が儲かる。実際、本当に儲かるようで若い女性から主婦、定年退職者などから人気があるらしい。趣味で語学を学ぶことはいいことだと思う。だが、趣味で学ぶ語学と職業にするための職業訓練とは全く次元が違う。
家具を作る家具職人、服のデザイナー、ビルや建物を設計する建築家、ものを書く作家、音楽を奏でる音楽家、絵を描く画家、どれをとっても職業として生活していけるようになるまで数十年以上の訓練なり下積み生活を余儀なくされる。誰だってヘタクソな歌は歌えるし絵は描ける。日曜大工で机を直したり、本棚を作ることだってできる。セーターやマフラーくらいなら手編みで編める。
だが、お金をもらって家具を作る人、服を作る人、ものを書く人、音楽を奏でる人、絵を描く人はそうはいない。しかも人を感動させたり、喜ばせることができる人はもっと少ない。それができるのが職業として取り組んでいる人だ。通訳者や翻訳家は職業だ。ボランティアや趣味でやるものとは違う。
企業組織のなかでストレスを抱える女性、社会から切り離され育児に悩む主婦、定年後の生きがいを求めてさまよう定年退職者たちの「心のすきま」を外国語の学習という方法で埋め合わせることはすばらしい。だが「憧れの職業」や「語学力を生かして」などといって外国語の学習それ自体を目的化し、趣味と職業訓練を混同させる宣伝文句は度が過ぎている。
とはいっても、ネット時代の消費者は賢いし様々な情報ツールも手にしている。いつまでも「憧れの職業」や「語学力を生かして」などといって商売になる時代は終わりつつある。ケーブルテレビでは24時間BBCやCNNが流れ、ネットでは世界各国の言語があふかえっている。外国語を使う仕事だから「憧れ」というのは、どう考えても古すぎる。
生活を賭け、人生を賭けて通訳・翻訳に取り組む通訳者、翻訳家は尊敬に値する人だ。そういう人の中からでしか一流の通訳者、翻訳家は生まれない。同業の通訳者や翻訳家から尊敬され、クライアントから喜ばれる仕事をするだけでなく、人を感動させる力を持っていなければ一流とはいえない。「憧れ」だけで一流の通訳者、翻訳家にはなれるものではない。覚悟とひたむきな努力、そして粘り強さを持つ者でなければ生き残ることすらできないのだから。
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