納税者の長者番付が話題にのぼった。2004年、日本での納税額が一番多かった人が、「サラリーマン」だというから話題性もあった。ただ今回、「サラリーマン」という言葉を聞いていて、語感のズレを感じた。
「サラリーマン」でも、「フリーター」でも、「ニート」でも、「エコンザミン」でも共通して持っている言葉の性質がある。その性質とは「空(から)」だという性質だ。「サラリーマン」という言葉は、それなりに意味づけされ、マスメディアでも頻繁に使われるから、ちゃんとした意味のある言葉だと思われている。
ところが、百億円もの給与所得がある会社員を「サラリーマン」と表現しただけで、語感のズレがオモテに現われる。なぜなら、「サラリーマン」という言葉では、この会社員のような巨額給与所得者のことを表現しきれないばかりか、とらえきれないからだ。
この語感のズレに着目し、週刊誌や新聞紙あたりで「スーパーサラリーマン」だとか、「勝ち組みサラリーマン」だとかなんとかいってベラベラ解説しはじめる人間がそのうち現われるはずで、たいていアカデミズムという「上界」からマスメディアという「下界」に下ってくる。
いくら現代語用語辞典で「新造語」を整理分類しても、語感のズレは解消しない。「間違った日本語」などといってみても、「誰が」間違ったと判断し、その決定は「誰が」するのか、なぜそうすることができるのかをよくよく観察していけば、最後に「権威」という言葉に行き着く。
現代日本語というものを、その生成時点までさかのぼり、現在と過去を連結してみると、「間違った日本語」などといっている人間は、いったいどういう意図をもって「間違った」と発信しているのか、その真の目的を見抜くことができる。
柳父章はその著書『近代日本語の思想』のなかで、こう指摘している。
日本語の文章といえば、その一つの典型的な形として、「〜は」で始まって、「 ……た」や、「……である」で終わり、そのあとに句点「。」を打つというような形を、人々は思い浮かべるのではないか。それは「文」という単位として、今日の日本語を書く人の常識になっているだろう。ところが、今から百年ほど前には、日本語には、そんな形はなかったのである。そういう形は、ほとんどすべて、西洋語の翻訳の結果として、人為的につくられていったのである。(66p) |
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つまり、現代日本語というものは、人為的につくられた文章体であり、翻訳文体、翻訳造語を組み合わせた人造文体、人造語なのだと柳父はいう。
別の著書『「ゴッド」は神か上帝か』では、現代日本語の不完全性をも指摘する。
文体を軽視した翻訳文は、当然のことながら人に訴える魅力が乏しいであろう。これは現代日本語の宿命とも言うべき問題なのだが、私たちの現代口語体とは、完成されたものではない。まだ完成途上にある文章体なのだ、という視点が必要ではないか、ということをここで言っておきたいと思う。(161p) |
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要するに、現代日本語というものは「穴だらけ」の未完成語で、いくらでも改善改良することができるのだと。
古代や中世ならいざしらず、現代日本語は一部の権力者や支配者のものではないし、アカデミズムのものでもない。教育者のものでもなければ教師のものでもない。ましてや、文法書をつくった死人のものでもない。
言葉には、目に見えない強力な支配力がある。敗戦から60年、戦没者は「あれよ、あれよ」という間に戦争にのみ込まれ、いつのまにか「必勝玉砕」を叫びながら散っていった。けっして、目には見えない言葉の支配力。それが、「必勝玉砕」の言葉のなかにも組み込まれていた。
現代日本語は、「必勝玉砕」のような「支配のための日本語」であってはならないし、これから翻訳によってつくられる新しい日本語も、「支配のための日本語」であってはならない。
「間違った日本語」を意図的につくりだし、「正しい日本語とは」などといって自らを権威づけしようとする人間。文法書を「聖典」であるかのように天にかざし、人々を従属させ、支配しようとする人間。「間違った日本語」や「正しい日本語」という思想のなかにも「支配のための日本語」が潜んでいる
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