おもしろい翻訳書が出た。内容うんぬんではなく、商品としておもしろいものが出た。翻訳書を手にとってみて、真っ先に読むのは「訳者あとがき」。美しく飾った表玄関からではなく、いつも裏口から入る。
裏口を開けてみると、たいてい原著者がにこやかに笑っていたり、ポーズをつけてこちらをみつめている。そのおもしろい翻訳書には、いないはずの人間、いないことになっていたはずの人間が、目で「何か」を訴えていた。そう、翻訳家という人間がそこで笑っていたのだ。
ちょうど10年前、1995年出版の翻訳書の裏口を開けてみると、原著者不在、翻訳家不在、写真なし。裏口からなんぞ「入るんじゃない」といわんばかりだ。手元にあるノンフィクションの翻訳書をみていくと、1998年頃から原著者の白黒写真が入るようになり、2002年頃からよくやく翻訳家の名前が入るようになってきている。
翻訳書の裏口開発史を簡単に振り返ってみるとこうなる。10年前、翻訳書の裏口は白紙&無地。7年前あたりから、原著者が白黒写真で登場。5年前あたりから白黒からカラー写真にパワーアップ。翻訳家が一番下に入るようになったのは、なんと3年ほど前から。
写真なし、白黒写真、カラー写真、たいした差じゃないと思っている人がいる。そう思う人はためしに、新聞の折込チラシをみてみるといい。どれが一番心を動かされるか、買ってみたくなるのはどれかを考えてみれば、その差ははっきりしている。
裏口から入ると、原著者がとびきりの笑顔で迎えてくれる。最近、やっと翻訳家の名前が入るようになったものの、いまだに原著者の下で「顔なし」の黒子役をおしつけられている。
翻訳書の裏口を開けた瞬間、著者の顔が目に飛び込んでくる。その一方で、翻訳家は「顔なし」の黒子をやっている。おかしい。この商品をつくった出版社は「おかしい」という感覚をもっていない。こういうところに読者の感覚と出版社の感覚とのズレが生まれている。
原著者が、目で「何か」を訴えている。その下の隅っこで、なんで、翻訳家だけ名前とメモ経歴しか載っていないのか。おかしいではないか。出版人はすかさず、こう反論してくるだろう「おかしいと思う方がおかしい」のだと。続けて、それが一般的だとか、常識だとか何とかいってくるに違いない。
翻訳書の裏口をどうつくるか、どう改良するか、どう開発するかは出版社に決定権がある。要は、翻訳家を「顔なし」にして黒子にしようが、カラー写真にして載せようが、原著者と対等に並べようが、表玄関に刷り込もうが出版社しだいだ。
2005年4月に出た新しいタイプの翻訳書には、翻訳家がちゃんといる。いるべきところに原著者と並んでニッコリ笑っている。カラー写真で、日焼けしている男だとか、ノーネクタイだとか、うしろに原書が置いてあるなど、一枚の写真のなかに無数の情報がつまっている。
翻訳書に感動した読者なら、この翻訳家の顔を簡単に忘れない。名前は忘れても、顔をみればすぐに思い出す。そう、「顔なし」ばかりの翻訳出版市場で、翻訳家の顔が何よりも信頼の証になる。そしてそれは、読者に選んでもらうための舞台装置として機能しはじめるのである。
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