古典的名著の新訳復刊ラッシュがはじまった。長いこと古典には「時代遅れのモノ」や「役に立たないモノ」などといったニセラベルが貼られてきた。なぜか、それは先人たちの英知の所在を隠し、ぼかすことで自らを権威づけしてきた人間がいるからだ。
本来なら、「古典ブーム」などということは起こってはならない異常事態である。年齢、性別、学歴、能力、資産、人脈に関らず、多くの人びとに共有され、親しまれていれば「古典ブーム」などということにはならない。「古典ブーム」という言葉の背後には、権威づけのために行なわれた過去との断絶がある。
古典は「古い」から古典なのではない。古典は名作のなかの名作、時のふるいにかけられて生き残ったものが古典である。時代や流行に左右されない魅力、価値、個性、特性、真理を持っているから古典になる。
50年前だろうが、100年前だろうが、500年前だろうが、1000年前だろうが、古典は古くならない。それが、古典というものである。しかも、50年後、100年後、500年後、1000年後も古典は古典であり続ける。
時代から時代へ、世代から世代へ、文明から文明へと受け継がれてゆくものが古典であり、文明の遺伝子が古典の中につまっている。とはいえ、生命体の遺伝子と同じように、遺伝子の乗り物となる言葉にも寿命がある。
言葉のなかには、寿命の長い言葉もあれば、寿命の短い言葉もある。人間と同じように、長生きすればするほど言葉にも機能障害が出てくる。言葉の寿命がつきれば「死語」となって辞書という名の墓場に葬られる。
乗り物である言葉の寿命がつきれば、古典は古典としての輝きを失う。いくら名作のなかの名作であっても、時代や流行に左右されないだけの魅力、価値、個性、特性、真理を持っていたとしても、言葉が死ねば古典も死ぬ。
古典が死ねば、現在と過去との連続性が断たれるだけでなく、現在位置を指し示す歴史的座標軸も消えることになる。さいわい、言葉が死んでも古典の原典が消滅しないかぎり、古典は何度でも復活することができる。
先人たちは、適正な時期に適性を持った人間を使って古典を蘇生させてきた。いうまでもなく、これからも適正な時期に適性を持った人間によって蘇生術が繰り返される。なぜなら、現在と過去を連結し、先人たちとの一体感を生み出しながら未来社会を創造する源泉が、古典の中にあるからだ。
古典が古典として光り輝やくためには、生きた言葉を操る人間が必要になる。生きた言葉によって古典が復活すれば、先人たちとの一体感が生まれるだけでなく、現在位置を指し示す歴史的座標軸が明らかになる。
死語で古典を殺し、古典を「時代遅れのモノ」や「役に立たないモノ」と思い込ませ、自らを権威づけしてきた「案内人」。アカデミズムという仮面をかぶった「案内人」に、いつまでも古典の殺生を委ねていてはならない。古典が光り輝やけば、案内人がいなくても道が見えるようになる。
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